「センチメンタルトレイン」MVを観て

 

 

 以下、いろいろ書いてはいるがトータル的に「これはこれでアリだな」というスタンスではある。

 

 ただ、「絵コンテ」というのは完成版ではその絵のとおりの映像になるという認識で良いのか?だとしたら些かもったいないような気がしてしまう。曲に入ってしまえばダンスの都合もあって絵コンテの案をそのまま映像に替えれば良いと思うが、曲の前後のストーリーはそうでなくても良いのではないかと考えた。そもそも松井の位置に顔を出さずに別の人間を起用するなら絵コンテなどに頼らずそれでゴリ押せば良いのに、とも少々思った。

 

 冒頭の松井と須田のやり取りでは、松井の台詞はカギカッコ付きの字幕で表現されている。個人的にはこのカギカッコもなくて良いと思うがそこはフィーリングの問題ということで。

 

 しかし、終盤の松井と宮脇のやり取りでの松井の台詞はカギカッコの前に「珠理奈」という表記があった。これ、いるか?説明的になってしまうのもそうだが、「宮脇さん」という呼び方は松井の【転校生】という設定をうまく表しているし、字幕という時点で誰の言葉かは自明だというメタ的な捉え方もできるだろう。

 

 また、宮脇や須田との会話を都度絵コンテ & 字幕と生身の人間の喋りとの切り替えで表現されていたが、個人的には松井の演出は絵コンテのみにして宮脇と須田の演技に委ねても良かったのではないかと思う。公式にこれは「未完成版」と銘打っているわけだから一応許される荒業だろう。もっとも、それが松井へのプレッシャーになるという批判は承知なので現状はこれが正解だとも思う。

 

 この設定、なんか既視感があると思ったら「ハルジオンが咲く頃」とか「サヨナラの意味」の類か。方々でこの曲は「坂道っぽい」との声を聞くがまあわからなくはない。サビの〈こんなに〜〉のところは「サヨナラの意味」の〈サヨナラに〜〉とメロディーまで似ているしな。似ているというか同じか?まあいい。

 

 一方で、言い方は悪いかもしれないがこの未完成版で「完成」しているような気もするのだ。最後、松井が2人に語りかけるシーンは逆に松井がいないことで成り立っているような、そんな感じもした。監督の高橋栄樹も「このMVは『未完成』と銘打たれるかもしれないが、個人的にはこれは一つの完成形だと思っている」という言葉を残している。

 

 それでも逆説的ではあるが、昨今はSKE48を一人で牽引してきたといってもおかしくない、いわば「代わりのいない」存在とされてきた松井珠理奈という人間の「不在」をこのように表現するのかと、少し哀しい気持ちにもなる。

 

 だから曲終わりの須田と宮脇が並んでしゃがむシーンこそCGであれ何であれ松井の存在を示すべきではなかったのか、と思う。トロフィーを置くことでポジションを示した手法は賛同しかねるが、ポジションを示すことは必要だと考える。

 

 松井と同じSKE48所属の須田亜香里も「そこにいないはずの珠理奈さんが見えた」と言っており、これはつまり松井を感じることができるMVだということだ。これについても須田は「珠理奈さんに会いたくなるMV」と言っており、須田をはじめとする選抜メンバー15名全員で松井を待っている意思が窺えた。

 

 完成版が作られる日を我々ファンもいつまでも待っていようじゃないか。